Friday, April 6, 2012
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The Camera Collection
Wednesday, February 22, 2012 Wednesday, October 26, 2011 Wednesday, September 15, 2010 Saturday, November 7, 2009
カメラによって捉えられた現実というのは、カメラを通したというまさにその理由で、生の現実ではなくて、ひとつの虚構かされた現実であるということね。だから写真家の出来ること、やることははっきり言って二つあると思うんだよ。つまり、今、行ったような社会的条件にうまくのって、商品としての情報、商品としての疑似現実を生産してゆく道と、それは一種のデマゴギーだよね、そうしたデマゴギーの日常的な生産者となるか、それとも逆に、カメラが現実を虚構化するまさにその一点を逆手にとって現実に対してその虚構を突き付けることによって、現実総体に、できることなら、亀裂を生じせしめてゆくか・・・・。
写真はつねにそれ自体虚構であると言うこと、それを前提にして出発しなきゃならないと思う。つまり「全体」があるわけでしょう。その全体から一部を盗み出し、それを際だたせると言うこと、それ自体「全体」に対して虚構になるということだし、と同時に、その照り返しとして、もしその特殊に切りとられて提示されたものが現実であるとすれば、むろん錯覚ではあるにしても、相対的にこんどは全体の方が虚構に転ずる。そういった相互性があると思うんだ。

(中平卓馬『見続ける涯てに火が・・・』) (via breathnoir)

下線引用者(m-louis)

「写真家の技倆も、モデルの身ごなしの計画性も疑えないが、こういう写真を見る人は、その写真の中に、現実がその映像の性格をいわば焼き付けるのに利用した一粒の偶然を、凝縮した時空を、探し求めずにはいられない気がしてくる。その目立たない場、もはやとうに過ぎ去ったあの分秒の姿の中に、未来のものが、こんにちもなお雄弁に宿っていて、われわれは回顧することによってそれを発見する事が出来るのだから。事実、カメラに語りかける自然は、眼に語りかける自然とは違う。その違いは、とりわけ人間の意識に浸透された空間の代わりに、無意識に浸透された空間が現出するところにある

(ベンヤミン『写真小史』) (via breathnoir)

下線引用者(m-louis)

Tuesday, November 3, 2009
どうして今さら銀塩フィルムなのか。「銀塩フィルムは痕跡、デジタルは観測」、「銀塩フィルム上にない画像は、改ざんされているかもしれず、信用できない」という銀塩フィルム派の弁は、思想や哲学の領域に入り込んでいて、近寄りがたい

ASCII.jp:今どき銀塩!大人の科学「二眼レフ」は誰が買う? (via ukeymrs)

「思想」や「哲学」に根拠があれば納得

(via nnnsht)

『思想地図 vol.3』巻頭「特集・アーキテクチャ」に寄せて 東浩紀 より

わたしたちは、イデオロギーにではなく、アーキテクチャに支配された世界に生きている。したがって、必要なのはイデオロギー批判にではなくアーキテクチャ批判である。

を想起するね。何となくw
ちなみにもれは一応謎の trace タグを残してる。