古代ギリシア伝統の自然観というのは
植物の生成をモデルにしている。
どういうことかと言うと、
自然(ピュシス)は己のうちに生成の原理を備えていて、
それによって運動(キネーシス)していると言うんですね。
(まぁ、ふざけて言えば、古代ギリシア伝統の自然観とは「自然は萌えるもの」、〈萌えの自然観〉という感じです。デリダも昔、授業で言ってました、「ピュシス」ってはce qui pousse〔萌えるもの〕だって。)
すると技術(テクネー)は要するに何をするのかと言うと、
その生成の運動に外から力を貸しているだけだ、ということになる。
たとえば、
「われわれは彫刻家が大理石の塊からヘルメスの像を造ると言うが、ギリシア人にとってはこれは、やはり大理石の塊がヘルメスの像に成ること、つまりもともと大理石のうちにひそんでいたヘルメス像が余計な部分をそぎ落としてそこに立ち現れてくることだと受け取られていた」。
(木田元『ハイデッガーの思想』岩波新書、163ページ)
いやぁ、これがすごい分かりやすい、このヘルメス像の説明。
もうこれだけで、
テクネーがなんで
「こちらへと-前へと-もたらすことHer-vor-bringen」なのか、
分かります。
自然(ピュシス)はそもそも内在的な運動の力をもっている。
そこに外から力を貸して、
こちらへと、つまり自分たちの方へと、
何かをもたらすのが、技術(テクネー)
というわけですね。
だとすると、
テクネーが
「こちらへと-前へと-もたらすことHer-vor-bringen」
から逸脱してきている云々の話は、
テクネーのことだけで考えているとよく分からないってことになります。
だって
テクネーがハイデッガーの言うようなものであり得るのは、
植物の生成をモデルにした自然観(〈萌えの自然観〉)があるからですね。
だから、
テクネーが「こちらへと-前へと-もたらすことHer-vor-bringen」じゃなくなってきてるというのは、
もう要するにこの自然観がなくなってしまったということの帰結であるわけですね。
テクネーのことだけを考えているとわかりにくい。
ピュシスの捉え方が重要なんですね。
國分功一郎〈原子力の時代〉の哲学(3)古市は一部からそのような主張の持ち主と見なされているのだが、全くの誤解である。 実際に『絶望の国の幸福な若者たち』を読んでみると、もう一つ、別の大切なことが書いてあるのに人は気付くはずである。それがモラル・エコノミーという概念だ。
これは民衆史の研究から出てきた概念である。それによれば民衆は「モラル・エコノミー」と呼ばれる独自のルールを持っている。民衆が立ち上がるのは、その独自のルールが侵された時が多いのだと言う。たとえば江戸時代の「打ち壊し」、大正期の「米騒動」がその典型例である。どちらも買い占めなどによる米価の値上げが彼らの独自のルールを侵したために起こった。
世界のどこか遠くで起こった不幸な出来事について突然語られても、人は驚くか、その場で悲しんで終わりになってしまうかもしれない。しかし、自分たちの日常に関わるとなれば、コンサマトリーな若者でも動き出す可能性があると古市は言う。
たとえば、多くのひとはいきなり「中国の工場における農民工搾取問題」と言われても何の関心ももたないだろう。けれど、iPhoneユーザーに対して「あなたが持っているiPhoneを製造した工場で労働者の連続自殺が問題になっている」という情報の提示の仕方だったらどうか。さらに、そのiPhoneユーザーの年齢にあわせて、「昨日死んだのは、あなたと同じ年齢の一九歳の若者でした」という情報が、写真付きで届けられたらどうか。「ちょっとくらいは別の国の、出会ったたこともない労働者のことを想像するかも知れない」。
人々を立ち上がらせるのはモラル・エコノミーの侵害だけではないだろうが、しかし、これは大切な回路である。そしてもう一つ大切なのは、最後の最後にならなければ自分のモラル・エコノミーの侵害に気がつかないという事態も多く存在するということである。
身近なところと遠いところ、少し難しく言えば、コンサマトリーな親密圏と問題が起きている公共圏とを繫ぐ何かが必要である。その何かは様々なものであり得る。原発事故であれだけの人が立ち上がったことを考えると、意外にちょっとした工夫で事態は大きく動くのではないかという気もしている。
國分功一郎【再掲】「パリのデモから考える」(スタジオジブリ小冊子『熱風』2012年2号「デモ」特集号掲載)日本の脱原発デモについて、何度かこんな話を聞いた。デモに来ている人たちは原発のことを理解していない。彼らは何も分かっていない。お祭り騒ぎがしたいだけだ、と。
先に紹介したパリでの経験を踏まえて、私はそういうことを言う人たちに真っ向から反対したい。
デモとは何か。それは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。その出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである。だから、デモに参加する人が高い意識を持っている必要などない。ホットドッグやサンドイッチを食べながら、お喋りしながら、単に歩けばいい。民主主義をきちんと機能させるとかそんなことも考えなくていい。お祭り騒ぎでいい。友達に誘われたからでいい。そうやってなんとなく集まって人が歩いているのがデモである。
もちろんなんとなくと言っても、デモに集まる人間に何らの共通点もないわけではない。心から原発推進を信じている人間が脱原発デモに参加したりはしない。彼らは生理的な嫌悪感を持つはずである。逆に言えば、脱原発という主張に、なんとなくであれ「いいな」と思う人間が集まるのが脱原発デモだろう。
デモのテーマになっている事柄に参加者は深い理解を持たねばならないなどと主張する人はデモの本質を見誤っている。もちろん、デモにはテーマがあるから当然メッセージをもっている(戦争反対、脱原発…)。しかし、デモの本質はむしろ、その存在がメッセージになるという事実、いわば、そのメタ・メッセージ(「いつまでも従っていると思うなよ」)にこそある。このメタ・メッセージを突きつけることこそが重要なのだ。
フランス人はよく日本のストライキをみて驚く。「なんで日本人はストライキの時も働いているの?」と言われたことがある。何を言っているのかというと、(最近ではこれはあまり見かけないけれど…)ハチマキをしめて皆で集会をしながらシュプレヒコールを挙げている、あの姿のことを言っているのである。ストライキというのは働かないことなのだから、家でビールでも飲みながらダラダラしているのがストライキというのがフランス人の発想である。私はこの発想が好きだ。
デモも同じである。デモにおいて「働く」必要はない。高い意識を持ってシュプレヒコールを挙げたり、横断幕を用意したりしなくていい。団子でも食いながら喋っていればいい。ただ歩いていればいい。なぜなら、単に群衆が現れることこそが重要だからだ。
國分功一郎【再掲】「パリのデモから考える」(スタジオジブリ小冊子『熱風』2012年2号「デモ」特集号掲載)jacony’s memo: - みーんな、わかってないなー。 (via umamoon, taizooo)
2009-04-23
(via gkojay) (via holespoles)
北朝鮮が人工衛星としている事実上のミサイルを南向きに発射すると予告していることについて、ロケット工学に詳しい専門家は、「地球の自転を利用する3年前の東向きの発射に比べ、技術的に難しくなる」と指摘しています。
北朝鮮が3年前に行った前回の発射では、ミサイルは東の方角に打ち出されましたが、今回、北朝鮮は、南の方角に向けて発射すると予告しています。
ミサイルの推進装置であるロケットは、東向きに打ち上げるのが最も簡単で、南向きはより高い技術が必要になります。
人工衛星を打ち上げる場合、地球を回る軌道に入れるには秒速8キロまで加速する必要がありますが、東向きの場合、地球の自転の速度(秒速400メートル)を利用できるのに対し、南向きの場合はこれが利用できず、より推進力が必要になります。
これについてロケット工学などに詳しい九州大学名誉教授の八坂哲雄さんは「南向きで、新たに必要となる推進力は、全体の5%ほどだが、もともと限界ギリギリに作られている機体にとって、さらに5%も能力を上げるのは、とても難しい。エンジンや機体の構造を変えたり、燃料を増やしたりする必要があり、3年前の東向きに比べ、技術的に難しくなる」と指摘しています。
また、新たに能力を向上させた機体の場合、失敗する懸念があるとしています。八坂さんは「日本や欧米の場合でも、新型のロケット打ち上げではたびたび失敗している。打ち上げに失敗してロケットがコースを外れた場合、周辺の国の安全を考えた適切な監視態勢を北朝鮮自身がどこまで整えているか、とても懸念している」と話しています。
専門家”技術的には前回より難しい” | NHK「かぶん」ブログ:NHK2012年04月11日 (水)

キュレーションという大変カッコイイ言葉がある。
情報を収集、選別、整理、要約し、みんなと共有するという意味だ。
アルファブロガーと呼ばれる有名人の方々のほとんどは
日々、このキュレーションを行っている。
時事ネタに対して独自の鋭い視点から知的な評論をしたり、
話題のニュースを解りやすくまとめて読者に提供してくれたり、
海外の記事をわざわざ翻訳までして紹介してくれたり。
彼らはインテリジェントな情報仕分け人として、
アクセス、人望、信用を集めている。
一方、テキストサイト運営はとても地道な作業だ。
コンテンツをほぼゼロから生成していくという手法は
コンテンツという作物を作る第一次産業という点で百姓や漁師に類似している。
そうやって作られたコンテンツを
集めて宣伝したり、美しく調理したりするのが
キュレーションと呼んでもいいのかもしれない。
僕の家は代々テキストサイトを運営しながら細々と生活してきた。
そのため、僕は幼い頃より
『tumblrはテキストサイトの敵だから近づいちゃいけない』
と祖母から厳しく言われたものだ。
テキストサイト村にはtumblrの悪行を伝える古くからの言い伝えがたくさん残っていた。
- 「ブログは『サンシャイン牧場』、タンブラーは作物泥棒」 (九十九式)
- 「陰謀史観的ブログ観測」 (おれはおまえのパパじゃない)
- 「テキストサイトにとってtumblrは大層許せない存在だと聞いていたので、どのくらい許せない存在なのか調べてやる!けしからん!とか思っていた僕のtumblrのフォロー数が先日800を越えました。」 (村人Aの証言)
- 「ブログも夏休みということにしているのですが、何も更新していないときの方が何故かアクセスがあって、またあのtumblrとかいう無節操なツールのせいか!けしからん!とか思っていた僕のtumblrのフォロー数が先日1000を越えました。」 (村人Bの証言)
- 「tumblrとかいう無粋極まりないツールで僕の記事が知らないうちにリブログされていて、僕の知らない場所でなんかコメントされてたり、スキ!とか言われても、知らねえよ!届いてねえよ!けしからん!とか言っているうちに僕のtumblrのフォロー数も先日1500を越えました。」 (村人Cの証言)
- 「ほんまtumblrはムカツキますね。リブログをかさにえげつない事しますね。tumblr大嫌い大嫌い大嫌い大好きっ…!アッー!」 (村人Dの証言)
ダメと言われると余計に気になってしまうのが人間の心理というもの。
ある日、僕は祖母の言いつけを破ってしまった。
僕は家族に黙ってtumblrが住むという禁断の森に踏み入ったのだ。
深い森の中を歩くこと数時間。
そこで、僕は出会った。
tumblrという名のケモノに。
tumblrの主食はエロ画像と名言。
噂に聞いたとおり、tumblrはコンテンツという野菜を盗み食いしていた。
驚いたことに、tumblrからは悪意が感じられなかった。
tumblrは子どものように無邪気に美味そうな野菜だけを食べ、
まずそうな野菜は全て残していた。
どこから採ってきたのか出所が解らない野菜も平気で何でも食べていた。
一般的に、キュレーターは野菜の生産地にこだわりを持っている。
そのためキュレーターに料理して貰うには
ある程度著名な農家であるか
SNSや実世界におけるコネクションが必要だった。
それに比べてtumblrの何と無節操なことか。
tumblrはどうやら純粋に野菜の味だけに興味があり
生産者への興味は無いようだ。
tumblrは純粋に味だけを評価するため
ある意味ではフェアであるし
ある意味では残酷だ。
〇〇日で月間アクセス〇〇万PVを達成したブログだろうと
どんなに魅力的なタイトルが付けられた記事だろうと
はてなブックマークされまくった記事だろうと
tumblrの世界では見向きもされない。
tumblrの生態を観察していて、他にも驚いたことがある。
tumblrは、古い野菜も平気で食べることだ。
大抵のキュレーターの人たちは新鮮な野菜を好むため、
古い野菜にはほとんど関心を持たない。
tumblrは野菜の新鮮さに関しては鈍感なように感じた。
更にtumblrはテキスト、写真、イラストといった素材を好むらしい。
キュレーターの方々が綺麗に調理した野菜にはあまり興味を抱いていなかった。
僕はtumblrを見ていて一つの疑問を抱き始めていた。
『ひょっとしてtumblrはそんなに悪い奴ではないのでは?』
人々の生活を豊かにするためにtumblrは生まれたのだと、と聞いたことがある。
tumblrに悪い噂が立つのは、我々に何か誤解があるのではないだろうか?
ナウシカたちが毒なしでは生きられないように
tumblrはコンテンツなしでは生きられない。
その日から、僕はtumblrと共に生きる道を模索しはじめた。
だが、しかし…。
tumblrはルールをまったく守ろうとしない!
文章を部分的に切り出して印象操作をする!
ふとtumblrの方を見ると急にエロ画像を見せてきたりするので
公共の場所に連れて行けない!
野菜を食べるだけ食べて生産者にお礼も言わない!
ときには自分が盗ってきた野菜の所有権を主張したりする!
野菜の感想も生産者の見えないところでひっそり評価したりする!
見えないところで『スキ!』とか言われても知らねぇよ!
届いてねぇよ!
……。
僕は疲れてしまった。
テキストサイトとtumblrは使用目的も、主張も違う。
やっぱり僕らはわかりあえないのかもしれない。
そして僕は森を去る決意をした。
さようなら、tumblr。
君は森で、僕はテキストサイトで暮らそう。
共に生きよう。
会いにくいよ。
ヤックルに乗って。
リブログ姫 - はじめに閲覧されるべきもの (via readme1st)
村人の証言以下が秀逸すぎるw
坂のある非風景 追悼 吉本隆明 (via ginzuna)
大三元のせい(おかげ?)で吉本隆明ろくに読んでないくせに
さらにはこの追悼エントリーちょっと読みにくいにもかかわらず
何となく言いたいことがわかるような気もするお年頃というか昨今。
via 細野晴臣のぶんぶく茶釜 : 第2講 「ぶれない。」 (via orehmi) (via konishiroku)
2008-02-17 (via gkojay) (via ashv01) (via yellowblog) (via nemoi) (via unknownlabel) (via mimioui) (via nuremochi) (via yuco) (via ujitomo
)
信条です
(via mitaimon) (via astrogator) (via nemoi) (via oharico) (via ropong) (via 115) (via kml) (via vmconverter) (via petapeta)
(via shiwoda, shanti) (via sakurasakuras)
“I don’t know anybody who’s made a record that sounds decent in the past 20 years, really,” the 65-year-old rocker said in an interview with Rolling Stone magazine.
Dylan, who released eight studio albums in the past two decades, returns with his first recording in five years, Modern Times, next Tuesday.
Noting the music industry’s complaints that illegal downloading means people are getting their music for free, he said, “Well, why not? It ain’t worth nothing anyway.”
“You listen to these modern records, they’re atrocious, they have sound all over them,” he added. “There’s no definition of nothing, no vocal, no nothing, just like … static.”
Dylan said he does his best to fight technology, but it’s a losing battle.
“Even these songs probably sounded 10 times better in the studio when we recorded ‘em. CDs are small. There’s no stature to it.
Bob Dylan: Technology Sucks
Twitter / 一楽 儀光 (via tsuda) (via whatsmyscene) (via hanemimi) (via katoyuu)
2010-04-07 (via gkojay) (via mitukiii) (via yakumoyukari) (via bawxxx) (via takaakik) (via deli-hell-me) (via nuremochi) (via currychef) (via skamio) (via kiri2) (via nag) (via kondot) (via n13i) (via superartlife) (via erohi) (via cajon) (via uchitaka) (via ak47)
2011-08-12
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東浩紀さん。
(via kikuzu)
小川範子『人喰い hi to ku i』 Ogawa名義 (2000.07.20)
作詞:蒼井紅茶/作曲・編曲:ヲノサトル より
フレンチ・ドレッシング
カルチェ・ラタンのある部屋で
今日も私は服を脱ぐ
東洋人の私の裸体を
パリジャンのいろんな色した瞳が見つめ
せわしなく手を動かす
燃え盛る冷たい熱気で
たくさんの目がガラス玉みたい
怖いくらい鋭く輝いて
突き刺さって毛穴まで覗かれそう
エキゾティックだなんて
黒髪が素敵だなんて
ああ
見つめられるなんて
犯されてるみたい
六区のとあるアトリエで
私は今日も服を脱ぐ
私の名前のヒトミを
画学生たち「イトミ」と呼んで
いろんなポーズをとらせる
優雅に響くリエゾンで
命令する声は愛の囁きみたい
痺れるくらい甘く甘く濡れて
なぶられて肌から溶かされそう
ロリータみたいだなんて
つぼみのようだなんて
ああ
見つめられるなんて
愛されてるみたい
サン・ミッシェル通りを曲がり
私は今日もこの部屋に
高揚と陶酔が渦巻いている
裸体スケッチなんて全部嘘
デッサンなんてただの言い訳
こんなに体の奥が痙攣する
パリジャンはみんな嘘つきみたい
カフェーで議論のしすぎみたい
私の肌を愛しているみたい
私を愛してるみたい
ああ
見つめられるなんて
犯されてるみたい
ああ
見つめられるなんて
愛されてるみたい
吉本隆明がどういう人だったか。友だちの奥さんをかっさらって、60年代安保闘争で拘置所にぶちこまれ、70年代には昼寝をしていたという人。戦後、おまえさんはなにをしていたのかと問われたら、二人の娘をせいっぱい育てていたという以上はないな、と言った人。買い物かごをさげて、近所のスーパーでほうれん草をかっておひたしにし、味の素をふって醤油をかけるのが旨いという人。そういう人だった。そういう人であることの意味を問いかける人だった。
(中略)
吉本隆明が仮に戦後最大の思想家だとしても、千年に一度しかこの世界にあらわれないといった巨匠にかなうものではない。では、その巨匠の生涯というものは何か。吉本隆明は、「市井の片隅に生き死にした人物の生涯とべつにかわりはない」とした(参照)。
市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。
市井の片隅に生き死にした人物のほうが、判断の蓄積や、生涯にであったことの累積について、けっして単純でもなければ劣っているわけでもない。これは、じつはわたしたちがかんがえているよりもずっと怖ろしいことである。
吉本隆明という人はその恐ろしさをずっと表現しつづけた。奥さんの和子さんは、そうした夫を、あなたの背中で悪魔の翼がばたばたと音を立てていると言った。そのとおりだろう。その和子さんがなぜ隆明を選んだのかというと、あの人は立ち小便をしない人だから、とも言った。同じことかもしれない。
極東ブログ「吉本隆明が亡くなった」